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ベラ・チャフラフスカさん逝く

 投稿者:布施院  投稿日:2016年 8月31日(水)18時41分3秒
  東京オリンピックの花、東京の恋人と呼ばれたベラ・チャフラフスカさんが74歳でなくなったそうです。 僕らより5歳ぐらい上だったのですね。 当時の、ねんねの僕には、もちろんとてつもなく大人の女性でした。 あこがれ、などというものを持つことさえ考えられないような飛びぬけて偉大な人でした。

で、その後の、プラハの春の弾圧、で相当苦しめられたのに信念を変えず、ソ連崩壊でやっと手にしたチェコの独立で名誉挽回、ものすごくドラマチックな人生だったと思いますが、決して自らは政治的な人ではなかったようですが、自分の信念を曲げなかった正直な人だったということが伝わってくるだけで、感動して涙が出そうになってしまいます。

http://www.joc.or.jp/olympism/fairplay/caslavska.html

https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/othersports/other/2015/10/12/51/

チェコという国、その国の友人たちのことなどを思い出すと、同様に感動をしてしまうわけです。

今日の収穫

 投稿者:川井浩  投稿日:2016年 8月27日(土)18時38分34秒
  ビニール袋に入っているのは、プルーン。 約5㎏収穫しました。 前回の収穫と、通行人が収穫した分とカラスに食われた分を合わせると6㎏にはなっていたと思います。 カラスが食べだし、通行人が食べだしていたので、収穫の時期がわかります。本当はもっと木につけたまま完熟させたいのですが、おいしくなる前にカラスと通行人のお口に入ってしまうので、やむなく収穫。
コンポットかタルトにしてもらおうっと。 もっとも、こんなにおおいとジャムにでもしないと日持ちがしないかもね。
完熟したプルーンはおいしいです。 本当は、もっと、木に付けたままで完熟させたいのですが、、、と未練が残る。

今日も、自転車にかごをつけてビニール袋持参の近所の工場帰りのおっさんが取り放題とっていた。 僕をみて一目散に逃げたけど、ご近所なんだから、やめてほしいわぁ。。。 このおっさん、今日が食べ時の予定だったイチジクも取ったみたい。 こうなると、うらめしい。 まぁ、垣根に果樹を植えるものの払うべき年貢と思って大きな気持ちにならないといけないと自らをなぐさめ、プルーンの加工を楽しみに待つ。
 

ブラ古地図(2)

 投稿者:川井浩  投稿日:2016年 8月27日(土)18時29分26秒
  3B課長様、古地図散策のご投稿ありがとうございます。 興味深い資料ですね。 特にブラ古地図(2)のでみる寺院の多いことに驚かされます。当時は寺というものが一定の経済力・政治力を持っていたんでしょうね。もちろん、庶民を含めた国民の心のよりどころ、冠婚葬祭を取り仕切るところ、でもあったわけですが。

3B課長さんのご幼少のお姿は一目瞭然、すぐわかりました。 モダンなジャンバーなどをお召しになり、モダンなご家庭だったことをうかがわせます。 で、当時の子供らの履物をみると、下駄、サンダル、ぞうり、などが主流でしたね。 運動靴などは、小学校も高学年になってからはいていたような気がします。 ふだんは、下駄・ぞうりが多かったなぁ。 草履は高いから、下駄が多かった。鼻緒がたまに切れたりして、よく付け替えたりしていたことも思い出しました。懐かしいです。

3B課長さんの実家は、今で言えば、銀座の裏通りか、渋谷か新宿の繁華街のすぐそばだったような感じだったのでしょうか。

そういえば、私の祖父の家が旧町名で浅草南松山町でした。 今の、元浅草4丁目付近です。 ルーツをKeepしたいので、私の本籍はそこから移動してません。 そこから前のことはわからないので。



 

ブラ古地図(3)

 投稿者:3B課長  投稿日:2016年 8月26日(金)22時16分13秒
  3枚目はやはり嘉永3年(1850年)の地図で、図中7の佐竹次郎は、久保田藩(秋田藩)の藩主佐竹氏の江戸屋敷で、現在は佐竹商店街となっています。二村隊長のご実家がありました。A組カジタさん情報によると、明治の初め、屋敷が取り壊されて原っぱになった跡に、高村光雲が高さ15メートルの大仏を作ったが、嵐で骨組だけになった話、ネットで、
http://www.satakeshotengai.com/kouunkaiko.htm検索すると、面白いです。東側の堀は三味線掘りで、隅田川に通じています。堀は埋め立てられて、今は大きなアパートが建っています。アパートと佐竹商店街南口の間に、清州橋通りが南北に通っています。その通りを北に向かって進み、直交している春日通りを渡り、さらに北上すると浅草通り手前左側に、前出の成就院、浅草通りを渡ってすぐ左側に永昌寺があります。図中8の鳥越明神は現在の鳥越神社です。図中9は、平戸藩松浦氏の江戸屋敷で、我らの忍岡高校です。
写真は、前出の吉祥院と、小学生の頃、下谷神社に集合したガキ友、自分は真ん中辺です。失礼しました。
 

ブラ古地図(2)

 投稿者:3B課長  投稿日:2016年 8月26日(金)22時13分27秒
  2枚目は嘉永3年(1850年)の地図で、図中4の永昌寺は、かつて嘉納治五郎が住んでいて、柔道を教えていたことから、講道館柔道発祥の地となっています。写真1枚目です。小学生の頃、そのお寺に5~6歳年上の息子さんがいて、よく野球をして遊んでくれました。正式な名前は知りませんでしたが、みんな?お寺さん’と呼んでいました。高校の頃まで、見かけました。図中5の吉祥院のそばに、B組ノザワ君の家があり、よく2階にお邪魔して、斜め向かいのF組ヤノさん家をチラチラ見ていました。図中6の誓教寺(せいきょうじ)は、D組ホンダさんのご実家で、葛飾北斎のお墓があることで有名です。写真2枚目。以前西側の通りは、忍のそばまでバスが通っていたバス通りで、通学に利用していた人も多かったと思います。  

ブラ古地図(1)

 投稿者:3B課長  投稿日:2016年 8月26日(金)22時09分36秒
  残暑お見舞い申し上げます。毎日暑いです。ところで、
池波正太郎が、自分が30歳まで住んでいた稲荷町の隣町、永住町に住んでいたことと、西町小学校の出身で、先輩であることが分かり、興味が湧いたところで、知人から借りた、著書?江戸切絵図散歩’を見て、江戸古地図の収集家であることを知りました。その江戸古地図が面白かったので、いくつか紹介します。
永住町は、上野と浅草の中間辺りにあり、本の中でも上野、下谷、浅草、三ノ輪、鳥越の古地図が初めに出てきます。(地図は北を上に編集しています)
1枚目、嘉永2年(1849年)の地図で、図中1の広徳寺には鐘楼があって、小学生の頃、境内で4~5人で遊んでいたら、お坊さんが出てきて、1人1回ずつ鐘を突かせてくれました。初めての経験で、うれしくてその後何度か行きましたが、2度目はありませんでした。当時お寺の西側隣には下谷区役所があり、15~16年後取り壊され、同時に広徳寺も壊され、大きくて立派な台東区役所ができました。そして隅っこに広徳寺跡の石碑ができました。写真1枚目です。B組ヤブキ君、京都のゴトウさんがご近所でした。図中2の下谷稲荷は、稲荷町の町名の由来となったお稲荷さんで、今も下谷神社の境内にあります。写真2枚目。実家は、下谷神社と図中3の成就院の中間にありました。E組イワタ君はご近所でした。
 

残暑お見舞い(5)

 投稿者:川井 浩  投稿日:2016年 8月22日(月)17時47分29秒
  その(5)

スイカがうまい、ビールがうまい、水シャワーが気持ちいい、女性が美しく見える、暑いのも悪くは無い。
 

残暑お見舞い(4)

 投稿者:川井 浩  投稿日:2016年 8月22日(月)17時46分2秒
  その(4)  

残暑お見舞い(3)

 投稿者:川井 浩  投稿日:2016年 8月22日(月)17時43分26秒
  その(3)  

残暑お見舞い(2)

 投稿者:川井 浩  投稿日:2016年 8月22日(月)17時42分53秒
  その(2)